第五回 昭和二十七年 春 苺の思い出
私は、無事幼稚園を卒業して、小学校に行くことになりました。
入学式には父が参加してくれました。
母は、まだ小学校には、遠くて疲れるので行けません。
間もなく給食が始まり、みんな嬉そうです。
母は食事の準備はできるようになりましたが、疲れるので、まだ私達と一緒に食事しないで休憩します。
私が家の外で遊ぶのを、母が喜こぶよう感じます。
おばあちゃんが、時々昼寝をするようになったので、賑やかな私が家の中にいると、気を使うようです。
暖かいある日、学校帰りに近所の瞳ちゃんと、遊ぶ約束をしました。
瞳ちゃんの家のそばの、約束した小川に行きました。
少し冷たい水の中で、ちっちゃなめだかが、すーすーすーと動いています。
小川とあぜ道の向うに、お百姓さんの畑が続いていて、苺が植えてあります。
薄い黄緑と薄桃色で、まだ熟れていません。
ところが、あぜ道に発見した一株の苺の実は、小さいけれど赤く熟れています。
「ワー、おいしそう!神さまからのプレゼント!」と、二人共思わず声が出て、一粒指で摘まんで、口に入れました。
「ウワー。あまーい!」苺とお日さまの味がします。
もう一粒づつ食べたらお終いです。
小さな苺は、四粒しか無かったのです。
突然、「コラー。苺どろぼうー!」という声がします。
ドキッとして声の方を見ると、瞳ちゃんのお兄ちゃんが、家の窓から手招きしています。
二人で罰の悪い顔をして、お兄ちゃんの所へ行きました。
「苺を取ったらだめだ。」とお兄ちゃん。
「はい。あぜ道にあったから。」と二人が小さい声で言いました。
「これからは、もう取らんな。」「はい。取りません。」「よし、もう取らんのなら、今日のことは、誰にも言わないことにする。」「もう取りません。」と、二人はもう一度、はっきり言いました。
翌日、私は学校から帰って、瞳ちゃんの家に遊びに行きました。
「こんにちはー。」と挨拶すると、運悪くお兄ちゃんがいます。
「いらっしゃい。苺どろぼうさん。」だって。
いやだなーと思いつつ二人で遊んでいると、「どうぞ。」と、お兄ちゃんがピーナツを持って来てくれました。
なんだか変な気分です。
数日後遊びに行った時、お兄ちゃんが留守で、ああよかったと胸を撫で下ろしました。
しばらくすると「宿題したか? 苺どろぼうちゃん。」と、お兄ちゃんが中学校から帰って来て、声を掛けます。
遊んで帰る時、「苺どろぼうちゃん。また遊びにおいで。」とお兄ちゃん。
田植えの前に苺が抜かれ、「苺どろぼう。」が、聞かれなくなりホッとしました。
私達は、あぜ道の苺でも、お百姓さんに断りなく、決して取らないことに決めました。
夏休みになり、小学四年生の姉と一緒に汽車とバスに乗って、田舎のおじいさんの家に行きました。
おじいさんの家の畑の赤い苺が、目に入りました。
夏休みにちょうど赤く熟れるようにと、おじいさんが遅めに植えてくれていたのです。
さっそく、おじいさんと苺狩りをして、竹で作った丸いざるに入れました。
井戸水を汲んで、さっと洗って頬張りました。
とても甘くて美味しい苺を、久しぶりに会った四才の弟と姉と一緒に沢山食べて、大満足です。
その頃、田舎には水道は無く、井戸水を汲み上げて使っていました。
「今朝、鶏が卵を産んだから、夕ご飯の時食べよう。」と、おじいさんが言うので楽しみです。
夕ご飯は、卵焼きと酢の物と具だくさん味噌汁です。
前に座っているおじいさんの真似をして、私は箸と茶碗を持って食べ始めました。
「としこは、右手に箸を持ちなさい。」とおじいさんが厳しい声です。
私はおじいさんと同じように持っているのに、どうしてかなと、戸惑った顔をしました。
それに気付いたおじいさんが、「向かい合った時は右と左が反対になるんじゃ。」と言います。
「母親が病気だから、右左も教えて貰っていないのか。困ったのう。」とも。
幼稚園の時、「箸を持つほうが右。」と先生が教えてくれましたが、私はなかなか覚えられなかったのです。
お弁当の時は、周りの友達の真似をして、箸を持っていました。
卒園する頃に,「胸に名札のある方が左、名札のない方が右。」とやっと分かりました。
だけど今日のように名札がない時は、分からないので周りの人を見習います。
学校では、先生が黒板にチョークを持って書く手と同じ手で、鉛筆を持って字を書いています。
しかし、いつも字がノートの升目の中から、はみ出してしまうので、もう一方の手で消しゴムを持って、消してばかりです。
その鉛筆を持つ手が右手で、消しゴムを持つ手が左とはっきり分かりました。
次の日の朝、私は鉛筆を持つ手に箸を持って、「こっちが右手であってる?」と、おじいさんに聞きました。
「おお、右手が分かったか。よかったのう。」と安心の声です。
朝ご飯の後、おばあさんが赤くなった苺を、ガラスのお皿に入れてくれました。
私はもちろん、右手に竹のホークを持って、苺を美味しく食べました。
おじいちゃんおばあちゃんと弟に「さようなら」を言って、幸せな気持ちで姉と我家に帰りました。