第三十四回 昭和三十一年 秋 おじいちゃんの思い出
母が病気になった時(三才の時)から父方のおじいちゃんと同居していたのですが、その頃のことは思い出せません。
五年生の秋、そのおじいちゃんの七回忌があったので、幼稚園の年中組に通い始めた頃のことを思い出しました。
おじいちゃんは中風(ちゅうぶ)という病気を患っていて、片方の手足が少し不自由でした。
ほとんどの時間、布団の上に座っているおじいちゃんに、私は幼稚園でのことをいつも話しました。
「毎朝、背の低い園長先生が、背伸びしてブランコの板に付いているクサリを、セットしてくれるよ。」「ブランコをこいでいると、空で白いお月さまが一緒に動いていたよ。」「今日はお月さま、いなかったよ。どこに行ったのかな?」「なくなったと思っていた、カバンが出てきたよ。」など話すと、おじいちゃんはニコニコ顔で聞いていました。
その頃、私はおじいちゃんのそばで、絵を描いて遊ぶことが多かったのです。
おじいちゃんも嬉しそうだし、みんなも私が外に出ると、池やみぞに落ちるので心配だけど、家にいると一番安心していることが分かったからです。
夜になると、いつもおじいちゃんのお客さんが来て、なんだか難しい話をしていました。
お客さんはみなおじさんで、政治の話をしていたようですが、おじいちゃんはほとんど聞き役でした。
おばあちゃんが用意した、徳利にいれたお酒とおちょこを持っていくと、おじいちゃんがとても喜んで、私を膝に抱っこしてくれます。
だから、お客さんが来ると、いつもお酒を運ぶ手伝いをしました。
その頃、父はいつも夜になると出かけていました。
お酒も政治のことも苦手な父は、友達のところにラジオを聞きに行っていたのです。
年中組の冬、おじいちゃんはだんだん座れなくなり、とうとう寝たきりになって死んでしまいました。
葬式にたくさんの人が来ました。
おじいちゃんの思い出はこのくらいしかありません。
「おじいちゃんが子どもの時、お父さんの商売がうまくいかなくなって、おじいちゃんは明治時代の小学校三年までしか通えなかったんだって。
その後、お店の丁稚奉公や道路工事などのきつい仕事をして、両親を養なったそうよ。大人になって、おじいちゃんはラムネを作る仕事や他の商売を始めて、薄利多売がモットーだったのよ。」と母が話してくれました。
また、「おじいちゃんは、小学校を卒業できなかったから、東京の学校の通信教育で勉強したのよ。その時学んだ『自由と平等』の考えを好きで、屋号を「自由堂」に決めたのよ。その考えを取り入れて、仕事や生活をしようと努力したのよ。」と母。
昭和十年頃、おじいちゃんが働けなくなったので、父がラムネ屋を引継ぎました。
父はおじいちゃんのことをあまり話しませんし、他のこともあまり話しません。
しかし、おじいちゃんが書いた字やお墓のことだけは、自慢します。
おじいちゃんは山からかっこいい大きな石を、リヤカーで運んできたそうです。
「惧会一処」(ぐえいっしょ、と読み、ここでみんな一緒に会いましょう、という意味)と自分で書いた字を、専門の人に彫って貰いました。
私の家はS寺の檀家で、そこにあるお墓はみな四角です。
おじいちゃんのお墓は、他のお墓とちがって、自然の大きい石を探せばよいのです。
そして、家には木を切った平板に、「一期一会」(いちごいちえ、と読み、人とはいつも、これっきりの一度の出会いかも知れないと思って、誠意を尽くして接しましょう、という意味)と書いて、鴨居(ふすまの上の横に長い木)にかけています。
おじいちゃんも父も自然が好きで、他と違うことも好きで自慢のようです。
おじいちゃんとは短い間ですが、親しくできてよかったと思います。
みんなの話を聞いていると、家の中の細々した事はおばあちゃんの言ったようになり、家族が外で学校へ行ったりスポーツや音楽などの活動をする時は、おじいちゃんの言う通りにしていたことが分ります。
自由と平等の考えは、家族の中には生かされていなかったよう感じました。