第三十五回 昭和三十一年 十月 茶道のけいこを始める
五年生のお盆の前、父に頼まれた「お布施」と書いた、お金を入れた封筒を持って、K橋を渡ったすぐの所にあるS寺に届けに行きました。
その時、「としこさんもお姉さんと一緒に、お茶のお稽古にいらっしゃいませんか?」と、住職さんの奥さんの茶道の先生が言われました。
着物姿の先生が丁寧な言葉使いなので、私も丁寧な言い方になります。
「はい、母に聞いてみます。」と応えて、挨拶をして帰りました。
二年前から、姉はお茶の稽古に、一人でS寺に行っています。
この前見た「あんみつ姫」の映画を思い出しました。
学校の生活発表会(学芸会と言わなくなりました)で、昔の女の子の役があった時、上手にできるようにお茶の稽古をはじめようかなと、思いながら家に帰りました。
母にお茶の稽古のことを伝えると、「行ってもいいよ。」と言います。
私はバイオリンを習っているので、「お金、大丈夫?」と心配して聞きました。
「茶道のお稽古の月謝は、お抹茶やお菓子代だけで三百円なの。大丈夫よ。」「それに、お父さんは、お茶の稽古に行くことに賛成よ。」と母。
おてんばの私がお茶の稽古に行って、おしとやかになることを、父母は望んでいるように感じます。
十月になり、母のお古のふくさと小さな扇子と新しい懐紙を袋にいれて、姉と一緒に稽古に行き始めました。
姉がお茶碗に茶杓でお抹茶を入れて、柄杓でお湯も入れて茶せんをふって、お薄を立てました。
住職さんのお母さんの先生が「そうですね。いいですよ。結構なお点前でございます。」とおっしゃいます。
私は、秋の花の和菓子を頂きながら、結構なお点前をする姉のことを、すごいなと感心して見ていました。
姉は明日テストがあるので、先に帰りました。
「左右の親指と人差し指をくっつけて膝の前の畳の上に手をついて、ご挨拶しましょう。」と先生が教えて下さいました。
つぎに「歩き方を教えましょうね。立って下さい。」と先生。
私は立とうとしました。
しかし、感覚がなく立てた足が崩れて、ドッテーンと大きい音をたててひっくりかえりました。
「足がしびれたのですね。親指を上に曲げると治りますよ。」と教えて下さいました。
しばらくして、やっとどうにか立てそうです。
「もう大丈夫ですか。今日はこれで終わりましょう。よく来ましたね。来週もいらっしゃいね。」と、先生がおっしゃいました。
私はまだしびれが少し残っていたので、そっと立って茶室を出ました。
隣の部屋で、住職さんが、作業服のお兄さんのお坊さんと話されているのが、目に入りました。
私の足がしびれて倒れた音が、聞こえているに違いない。
恥ずかしいので、顔を見られないように、そっと靴を履いて、大急ぎで外に出ました。
お茶の稽古は大変そうですが、きれいな和菓子とお抹茶もおいしいので、続けようと思いました。
しばらく稽古を続けて、お菓子の頂き方、お茶の飲み方、襖(ふすま)の開け閉めや床の間の拝見の仕方、歩き方などを教えて頂きました。
「バタンと音がしないように、静かに座りましょう。」「襖は丁寧に締めましょうね。」と先生が注意なさいます。
しかし、「ご挨拶が上手ですね。」とか「いい姿勢ですよ。」などと誉めて下さいます。
花や木の葉の素敵な茶菓子を頂いて、ゆったり過ごすことに、私はだいぶ慣れてきました。
秋も深まり、ふくささばきを教わった後、「今日はお薄を立てましょう。」と先生がおっしゃいます。
先に、先生が手本に、お薄を立てて下さいました。
「ここで、『結構なお点前でございます。』と言いましょう。」と先生。
先生に、まだ新米の私が言うのは失礼な気がしますが、これがお茶を頂く時の、決まりの挨拶だと分かりました。
つぎは私の番です。
お客さんになって座っていたので、足がしびれたようですが、どうにか立って歩けそうです。
お茶の入ったおなつめを持って座る時、音が出ないように気をつけて、そっと座りました。
その時、おなつめをポーンと落としてしまいました。
若草色のお抹茶が畳に広がりました。
先生が小さなほうきで掃き取って下さいましたが、畳が若草色に染まっています。
乾いた雑巾で拭き取っても、お抹茶は少し残ったままです。
「大丈夫ですよ。このつぎから気を付けましょう。今日はこれで終わりますが、来週もいらっしゃいね。」とがっかりしている私に、先生が声を掛けて下さいました。
気を取り直して、帰ることにしました。
玄関に出てみると、住職さんがこの前の作業服の兄さんのお坊さんに、なにか話しておられます。
「私がおなつめを落としたことを、知っているのかしら? どうして、私が失敗した時いつもいるの?」と、恥ずかしい気持ちです。
あいさつもそこそこ、大急ぎで玄関を出ました。
なんだか疲れたので、隣の本堂の前の石段に座って、休むことにしました。
さっきの作業服のお坊さんが、玄関から出てお寺の門を通って、帰って行きましたが、頭の髪の毛がずいぶん伸びています。
お兄さんはお坊さんを辞めたのかな? それとも、お坊さんではないのかな? 不思議で、なんだか気になります。。
帰っていると、お稽古に行く姉に出会いました。
姉に、私の失敗が知れるかもしれませんが、仕方ないなと思いながら家に急ぎました。