お話「ラムネ屋トンコ」


第四十六回 昭和三十二年 秋 広島から引っ越して来た百合さん

六年の十月、講堂で学視連(学校視聴覚連盟のこと)と書いたフイルムの映画が始まりました。

ディズニーのアニメよりきれいな色の「南の島沖縄の海中」の記録映画です。

サンゴ礁が美しく、そのまわりを初めて見る赤や黄色の大小の珍しい魚が、泳いでいます。

こんなきれいな沖縄の海に行ってみたい、と思いながら見ていました。

その時、隣の組の広島から引っ越して来た百合さんが、私の膝の上に倒れ込んで来ました。

「ウウ ウウ ウー」と苦しそうで、気を失ったようです。

私は思わず、百合さんの体をそっと抱きました。

しばらくして、百合さんは気が付きましたが、疲れているようです。

「発作が起きたのよ。ありがとう。」と百合さんの組の級長の玲子ちゃんが、急いでやって来てお礼を言いました。

百合さんに替わってお礼を言う玲子ちゃんに、驚きました。

玲子ちゃんは、百合さんを抱きかかえるようにして、保健室へ連れて行きました。

百合さんは、しばらく保健室で横になり、休憩したようです。

百合さんは、広島に落とされた原子爆弾に被爆したのではないかと、頭をよぎりました。

それは、百合さんさんが私達より一才年上だけど、体が弱いから一年遅れて六年生に転入した、と聞いたからです。

四年生の夏、私は原子爆弾のことを、初めて知りました。

高校生のお姉さんのいる友達が「被爆した少女禎子(サダコ)さんが、白血病で苦しんでいる」という記事の載った中国新聞を、見せてくれたのです。

その時、お姉さん達が回復を願って千羽鶴を折り、禎子さんに送るというので、私達も折って手渡しました。

秋になって、禎子さんは千羽鶴を折りながら亡くなってしまったことも、中国新聞で知り、とても悲しくなりました。

五年生の夏、教会の日曜学校の先生が「十一年前の八月六日に広島に原子爆弾が落とされました。」と話し始め、「こけし」という文集を読んでくれました。

それは白血病で亡くなった禎子さんの級友達が作った追悼文集です。

禎子さんの思い出や、原爆を憎む声や戦争反対の声が、書かれていました。

また、先生は、原爆が落とされた後のことも話してくれました。

黒焦げになって死んだ人や、全身大火傷を負って苦しみながら「みずー。みずー」と言って死んでいった人達のことを聞いて、原爆の怖さを知りました。

「原爆乙女」と言って顔や体に大火傷を負った女性達が、火傷の跡を治すために、アメリカに行ったことも聞きました。

そして、「原爆の犠牲になった子ども達の慰霊のためと、原爆と戦争のない平和な社会を願って、原爆の子の像をつくることになりました。そのための募金をしているの。みんなで参加しましょう。」と、先生は言って小さな募金袋を配りました。

次の日曜、私は少ししか残っていない小遣いの中から、三十円を募金袋に入れて持って行きました。

先週、お茶のお稽古の時用の靴下を買ったので、おこづかいは残り少なかったのです。

百円札を入れている友達もいたのて、びっくりして恥ずかしそうに募金袋を出しました。

先生が「募金するからとお母さんにお金を貰って袋に入れた人より、少なくても自分のお小遣いの中から出した人のほうが、尊いのよ。」と言ってくれたので、ホッとしました。

話はもどりますが、百合さんが倒れた次の朝出会った時、百合さんは「昨日はごめんね、ごめんね。」と何度も言います。

「私は大丈夫よ、百合さんのほうが苦しかったでしょ。もう大丈夫なの?」と聞き返しました。

百合さんはうなずきました。

何度もごめんねと言う百合さんを、気の毒に思います。

しばらくして、六年生の学年会が講堂でありました。

百合さんが隣になりました。

「この前はごめんね。」と百合さんは、少し緊張して言います。

「私は痛くなんかないから大丈夫よ。百合さんの方が大変。

もし、倒れたって平気よ。まかしといて。」と微笑んで言いました。

百合さんもにっこりして緊張が取れたようで、私もホッとしました。

その日は、学年会をゆったりと過ごせました。

今度から「倒れても平気平気!気楽にしようね。」と声を掛けようと思いました。

玲子ちゃん達も声を掛けています。

その後、時々講堂で全体の会がありましたが、百合さんは大丈夫でした。

しばらくたっての学年会で、読書コンクールがあるので、玲子ちゃん達も私も壇上で朗読するので、前に行きました。

朗読が数人すすんだ時、後のほうでゴーンと倒れる音がしました。

百合さんが倒れたのです。

保健室の先生がすばやく百合さんに駆けより、抱きかかえました。

しばらくして、百合さんは気が付き、先生が付き添って保健室に連れて行きました。

残った玲子ちゃんや私の朗読も進み、学年会も終りました。

私は百合さんのそばにいたらよかったと、思いました。

百合さんは保健室から教室に戻ってきて、皆と一緒に下校しています。

「さっきそばに居なくてごめんね。大丈夫?」と聞きました。

「あまり覚えていないの。ちょと疲れたけどもう大丈夫。」と百合さんは応えました。

百合さんと原爆ことは、私の心にずっと残っています。

ですから、数年後の高校生の時、広島原爆ドーム保存運動が起った時、私は是非参加したいと思いました。

署名と募金活動をしていた日曜学校の先生をたずねて、署名用紙と募金箱を受け取りました。

原爆投下された八月六日の次の日、外はカンカン照りなので麦わら帽子をかぶって一人で出掛けました。

夏休みで、友達は田舎に行っていたので私一人で始めました。

駅前の商店街は人通りが少なく、店の中からラジオの高校野球の実況放送が流れています。

「原爆ドーム保存のための、署名と募金をお願いしまーす。」と声を上げますが、ラジオから聞こえる高校野球のアナウンサーの解説と応援の声に、私の声は消されそうです。

頑張って大きい声で呼びかけていると、通りの向うから百合さんが、ゆっくり歩いて来るではありませんか。

久しぶりに会った百合さんは「としちゃん、ありがとう。少しだけど。」と言って、募金と署名をしてくれました。

「帰りに角のタバコ屋に寄ってね。」と百合さん。

「署名と募金をありがとう。必ず寄るね。」と私は応えました。

次に父が様子を見に来て、署名と募金をしてくれました。

人通りが少なかったので、数人の募金と署名を受けただけです。

帰りにタバコ屋に寄ると、百合さんはホウキを持って、掃除をしています。

手を休めて、奥から手さげ袋を持って来て、その中から手帳を出しました。

「これは私の被爆者手帳なの。いじめられたり差別されるから、絶対他人に見せたらダメと、お母さんが言ったの。でも、としちゃんにだけは見せるわ。」と手帳を見せながら、百合さんは言いました。

「私は疲れやすいから、高校に行けないし、人並みに働けないの。ここのお店のおばさんは親切な人で、私を働かしてくれるのよ。食事を食べさせてくれるし、お小遣いもくれるの。」と百合さん。

私はやっぱり百合さんは被爆していたんだと思いながら、「それは大変ね。体を大事にしてね。」としか言えませんでした。

疲れやすくても、頑張って働いている百合さんのことを、すごいなーと感心するばかりでした。

家に帰ってから、町内のU先生や散髪屋さんやふすま屋さんや美木さん達の家にお願いに行くと、快く署名と募金をしてくれました。

私の町内の人が戦争のことを話すのをあまり聞いたことがありませんが、町内の方達の平和を願う気持ちと原爆反対の気持ちが、伝わって来て、嬉しくなりました。

しかし、被爆して苦しんでいる人の体が弱いなどと言って、就職の時などに差別されることに悲しくなり、そのことがずっとが心から離れませんでした。


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