お話「ラムネ屋トンコ」

お話「ラムネ屋トンコ」

第十一回 昭和二十八年 秋 引揚者と戦争

第011回の絵

二年生の十月、学校から帰った時のことです。

「お疲れじゃったのう。よう帰っておいでじゃ。よかったのう。」と、おばあちゃんが、古びた薄茶色の服を着た、二人の知らないおじさんに話し掛けています。

おじさんは手と顔を井戸水で洗い、サッパリして、台所の出入り口のそばのラムネの箱に、腰を下ろしました。

母が大急ぎで大きいおにぎりを作って、たくわんと一緒に大きいお皿にのせて、二人の前に差し出しました。

おじさんは一言もしゃべらず、もぐもぐと食べます。

そして、にこやかな顔になって、何度もお礼を言って、帰って行きました。

「戦争の前から、海のむこうの遠い満州に行っていて、戦争が始まり帰れなかったんじゃ。やっと引き揚げて帰って来た人達じゃ。」とおばあちゃんが話しました。

その年の暮れ、おばあちゃんが亡くなりました。

そのすぐ後、私より大きい二人の男の子とお母さんの、三人連れがやって来ました。

破れた古い服を着て、長い間お風呂に入っていなくて、疲れているようです。

母は、たくさんのおにぎりと厚揚げの煮物とたくあんを、二つの大きいお皿に盛って、三人のところに持って行きました。

男の子は両手におにぎりと厚揚げを持って、がむしゃらにぱくぱく食べて、「お腹一杯になった。」とにこにこ顔です。

お茶も飲んで、三人とも元気になって、帰って行きました。

「どこの人?」と、私は母に聞きました。

「おじいちゃんが昔からラムネ屋をやっていて、その時のお客さんだった人よ。」「満州に行っていて、戦争が始まりひどい目にあって、終わってからも苦労して、やっと帰って来たそうよ。」と母。

「朝から何も食べていなくて、フラフラだったそうよ。夕方の船で、KA島のおばあちゃんの家に帰るんだって。」「時々訪ねてくる人は、お腹がすいて歩けないの。うちに寄っておにぎりを食べてから、船に乗ってKA島に帰るのよ。」と話しました。

その日の夕食は、いつもより遅くなり、炊き立てのご飯と味噌汁だけですが、おいしく感じました。

私が二年生の間に、お兄さん達も加えると十組以上の人達が訪ねて来ました。

とても遠くて寒いシベリアという所から、はるばる帰って来た人もいました。

三年生になって、学校から映画館に行き、戦争の記録映画を観ました。

「ごおーんごおーん」と戦闘機のけたたましい爆音が、聞こえます。

怖くて前の椅子の背に、隠れながら観ました。

若いお兄さんの兵隊を、学校の先生やおばあさんや女の人達が、日の丸の旗をふって、見送っているようすが写っています。

また、満州で多くの兵隊が、鉄砲や大きい車のついた戦車などで闘っています。

建物が崩れたり、多くの兵隊が倒れています。

なんとその兵隊の服と、我家に訪ねてきたおじさんやお兄さん達の古い服が、同じだったのです。

また、家が燃えている町で、大勢の人達が逃げ惑い、大怪我をして倒れている人もいます。

荷物を背負っているお母さんが、小さい子どもの手を引いて、あわてて逃げています。

この前、満州から引き揚げて我家に来た、お母さんと二人の男の子のように見えました。

私は家に帰って、恐ろしい戦争映画のことを母に話しました。

母が、私が戦争中に生まれたことや、戦争中の怖かったことなど話してくれました。

その数日後、私は父の引き出しの中に、古い戦争中の写真を見つけました。

町内の若いお兄さんが、兵隊の服を着て中央にいます。

その周りに近所のおばさんやおじいさん達が、日の丸の旗を持って写っています。

戦争は他の国の人達を殺しに行くこと、戦って死ぬかも知れないことと、私は映画を観てはっきり分かりました。

近所の優しいおばさんや親切なおじいさん達が、他の国の人を殺すための戦争に「いってらっしゃい。」と、若い人を送り出す姿が目に浮かび、私はとてもショックを受けました。

私のなかに「なぜ?どうして?」という疑問が生まれました。

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