お話「ラムネ屋トンコ」
第十二回 昭和二十八年 暮れ おばあちゃんの思い出

二年生の年末におばあちゃんが亡くなりました。
おばあちゃんのことを思い出します。
五才の春、百日咳の病気が治ったある日の朝、私は「お弁当を作ってちょうだい。」とおばあちゃんに頼みました。
その頃、母は病気が完全に治っていないので、午前中はまだ起きていません。
それまでのおばあちゃんのお弁当は、ご飯にかつおぶしを振り掛けたものに、決まっていました。
その日、おばあちゃんが初めて、田舎のおじいさんが持って来た、卵で作った炒り卵をご飯にのせた、お弁当を作ってくれました。
嬉しくて父に見せてから、近所のれんげ畑に、隣のみこちゃんと一緒に行きました。
まわりに黄色い菜の花畑や若草色の麦畑が広がっています。
れんげ畑のあぜ道に座って、れんげの頭飾りや首飾りや腕輪を作って遊びました。
においをかいだり味見もしました。
甘酸っぱいかわいい味です。
そのうちお腹がすいたので、お弁当。
青空の下で、薄桃色のれんげ畑の中の、黄色い卵のお弁当がとってもきれいで、食べるのがもったいない気持ちです。
おばあちゃんの一回きりの美しいお弁当が今でも目に浮かびます。
五才の冬、おじいちゃんが亡くなり、おばあちゃんはだんだん元気がなくなってきました。
一年生の頃、おばあちゃんの用意する食事はお魚と味噌汁と漬物でした。
その頃から、代わりに母が元気になりました。
二年生の春から、母がすべて食事の用意をするようになり、おいしくて栄養が摂れるよう考えていました。
結婚前に神戸で洋裁学校に行き、その寮の料理当番の時、料理を覚えたそうです。
「おばあちゃんの作る食事では、栄養が足らないから、気を付けなくちゃ。」と言って、おばあちゃんにも、いろいろ食べさせようとしました。
ラムネの製造場の裏の畑で、枝豆やかぼちゃなどの野菜作りを始めました。
しかし、おばあちゃんはあまり食べません。
ずっと以前から、我が家のラジオから聞こえるのは、ニュースと、戦争の後の行方不明者や引揚者の、尋ね人の放送が多かったのです。
隣のいとこの家は「笛吹童子」や「紅孔雀」など、歌やお話が流れてくる楽しいラジオがあって、羨ましく思っていました。
しかしそれは、ラジオの違いでなく、父が歌のない番組を選んでいたのです。
おばあちゃんが、父の次兄が死んだのは、音楽を熱心にしたせいと思って、音楽を聴くと気分が悪くなるからです。
だから、父はラジオを聴くために、毎晩友達の家に出かけて留守だったのです。
そのかわりと思うのですが、父は仕事が早く終わった時、ヘンデルとグレーテルや灰かむり姫などの童話を、私達子どもに読んでくれました。
二年生の十二月になりおばあちゃんは寝込んで、起き上がらず、お粥も食べなくなりました。
父が東京の姉の秀子おばさんに「ハハキトク、シキュウカエレ」と電報を打ちました。
おばさんの家には電話がないので、電報局に電話をかけて電報を家に届けてもらうのです。
次の日の午後、父が「K川に海の潮がどこまで来ているか、見ておいで。」と言いました。
川には海の水が少し来ているけど、満潮ではありません。
帰って父に伝えると、「引き潮の時は危ないけど、姉さんが着くまでに、おばあちゃんは、息を引き取ることはないだろう。」と父。
日が暮れて、おばさんがあわててやって来て、おばあちゃんの枕もとに座ると、おばあちゃんは静かに息を引き取りました。
ちょうどその時、引き潮でした。
その頃、父の兄家族は県庁のあるY市に引っ越したので、私はとても淋しくなりました。
