お話「ラムネ屋トンコ」
第十三回 昭和二十九年 春 私が生まれたのは戦争中

三年生になって、戦争の映画をみた後に、母が話してくれました。
「としちゃんがお母ちゃんのお腹の中にいた時は、ここのすぐ裏にあった借家に住んでいたの。
戦争中で空襲警報が、たびたび鳴ったのよ。
戦闘機が飛んできて、爆弾が落とされるかもしれないので、そのたびに海のそばのなすび畑まで、大きなお腹を抱えて汗をふきふき、大急ぎで逃げたの。」と、お話は始まりました。
「なすびの葉っぱの影に隠れて、じっとしていたのよ。爆弾が落とされて、焼け死ぬのではと、体がガタガタ震えて、生きたここちがしなかったわ。」「長い間戦争が続いていたの。昭和二十年七月の朝、予定日より早く、急にお産が始まりそうになったので、近所の人がお産婆さんを呼びに行ってくれたの。
そのすぐ後、空襲警報がなったの。お母ちゃんは、お腹が痛いし、どうなることやらと、ビクビクしてたのよ。」「そして、お産婆さんが来る前に、としちゃんが産まれてしまったの。ちっちゃくて青白かったのよ。としちゃんに敷布を掛けて、体温が下がらないようにして、お産婆さんを待っていたの。空襲警報の中、お産婆さんが急いでやって来て、すぐとしちゃんの臍の緒を切って、産湯に入れてくれたの。」と続きます。
「死なないで生きていて、本当によかったわ。」「その後、また空襲警報が鳴ったの。防空壕に入るよう勧められたけど、満員で入れなかったの。お母ちゃんは、とても暑つ苦しい防空壕に入りたくなかったから、ちょうどよかったのよ。入っていたら、熱射病にかかって、苦しくて死んでいたかもしれないわ。」「それから一ヶ月の間、戦闘機が飛ぶ音や、爆撃の音がするたびに、としちゃんはちっちゃな手や足や目などを、ピクピクさせて反応していたの。おちおち眠れなくて、かわいそうだったわ。」「戦争中、近くの民家が爆撃された時は、破片が飛んできて危なかったのよ。その家は焼け崩れたの。」「西の方では、人間魚雷の基地のあるT市の燃料廠が、爆撃されて燃え上がり、空が真っ赤に染まったの。東の方の海軍工廠が爆撃された時も、空が赤くなり恐ろしかったのよ。」「お母ちゃんは、戦争が早く終わることを、願っていたの。」とも、話してくれました。
日本は戦争に負けて八月十五日に放送があり、やっと静かになったそうです。
戦争が終っても食べ物がなく、母は栄養不足で母乳が出ませんでした。
やっと牛乳が手に入っても、私がなかなか飲まないので、苦労したそうです。
その後、農家の人達が田畑に作物を作れるようになって、お米や野菜の食事が、摂れるようになったそうです。
しかし、まだまだ食料事情は、よくなかったようです。
そんな中、私が三才になる前、母はまわりから男の子を期待され妊娠して、みんなの望み通り、弟を出産しました。
その弟が一才になる前の昭和二十四年の初めに、母は肺浸潤を患いました。
弟は田舎のおじいさんおばあさんの所に預けられ、私と姉と父は、すぐ近くのおじいちゃんおばあちゃんの家で暮らすことになりました。
おじいちゃんの家には、ラムネの製造場も離れの部屋もあり、母はその離れの部屋で、療養を始めたのです。
私はおばあちゃんおじいちゃんと父と姉のもとで、あまり淋しさを感じないで育ちました。
私が、しばしば転んで怪我をしたり、池に落ちたりするので、みんな心配しましたが、そのうち慣れっこになったようです。
幼稚園や学校に行くようになり、みんながホッとしたのもつかの間、私が高いところから落ちて怪我をしたり、忘れ物や落とし物をするので、みんな呆れたり、笑っていたようです。
五年たった今、母は元気になりほんとうによかったです。
