お話「ラムネ屋トンコ」
第十四回 昭和二十九年 初夏 五百円札はどこへ?

三年生の七月。「としちゃん、おとうふと薄あげを買ってきてね。」と、母が買物かごの中に五百円札を入れて、私に渡しました。
「はーい。」と、私は元気に出かけます。
K橋を渡る時バスが見えたので、排気ガスが嫌いな私は、逃げるように店まで駆けて行きました。
「おばちゃーん、おとうふと薄あげ頂だい。」とお札を渡そうとしましたが、かごの中に見当たりません。
「おばさん、ちょっと待ってて!」と言って、今来た道をよく見ながら、引き返しました。
もう一度よく見ながら、店まで帰りましたが、五百円札は見つかりません。
「お金がなくなったからいいわ。」と、しょんぼりした声でおばさんに伝えてから、とぼとぼと橋を渡って、帰り始めました。
すると、橋のむこうから母が迎えにやって来て、「ひょっとしてと、心配で見に来たのよ。あー、やっぱり。」「大きい財布に入れて渡したらよかった。五百円は一週間分のおかず代よ。」と、がっかりした声です。
買い物かごをグルグル回したので、飛んで行って川に落ちたんだと思いながら、うつむいて家に帰りました。
翌朝の味噌汁の具はわかめとわけぎだけです。
あとは、かつおぶしと味噌を混ぜて煮たものとご飯で、なんだか淋しい気がします。
学校に行って給食の時、父と母が朝ご飯の残りを食べている姿が目に浮かびます。
私は午後の授業はそっちのけで、どうしたらよいか考えました。
「そうだ、何か食べ物を探せばいい。」と気がつきました。
学校の帰りに潮干狩りによく行く、近所のおじさんの家に寄りました。
都合よくおじさんは、「潮まんがいいから、今からあさり貝を取りに行くところだよ。」と言って、出掛けるところです。
私は大急ぎで家に帰って、バケツと熊手を持って、我が家から百メートルのところの、K川の河口の砂浜に行きました。
大人の人に混じって、一生懸命掘りました。
おじさんが小さい貝をくれたので、いつもより早く、貝がバケツいっぱいです。
家に帰ってバケツの貝を見せると、「今夜砂出しして、明日食べようね。」と母はにっこり顔です。
翌朝の汐汁の美味しかったこと、今でも覚えています。
次の日、学校から帰る途中、同級生のまさあき君が、K川の堤防で釣りをしていました。
バケツには数匹のフナが泳いでいます。
「フナ、食べられる?」と聞くと、「うん。」とまさあき君。
「私も釣りたいな。」と言うと、余分の自分で作った、竹の釣り竿を貸してくれて、エサもくれました。
私は小さいフナを、三匹釣りました。
家に帰って、小さいバケツを持って来ると、まさあき君は一番大きいフナ一匹と小さい三匹を、入れてくれました。
「ありがとう。」とお礼を言って、家に持って帰りました。
夕飯のおかずはめばるの煮魚です。
「フナを食べるからいいよ。」とめばるの煮魚を遠慮すると、母は苦笑いをしました。
母が煮てくれたフナの味は、少し苦いように感じました。
父は魚の身を取るのが苦手で、いつも残りを私にくれます。
その日の父のくれためばるには、いつもより多く身がついていました。
その頃、母は病気がすっかり治って元気になり、裏の畑に玉ねぎやジャガイモなどを植えていたのです。
私はすすんで手伝うことにしました。
肥やしを作るために、野菜のくずや魚のあらなどを、肥料壺に入れる時、とても臭かったのですが、頑張りました。
夏休みになり、朝のラジオ体操に行く途中、なすび畑があります。
収穫をしているおじいさんに「おはよう。」と言うと、曲がったなすびを二本くれました。
私はお礼を言って、嬉しいのでスキップしながら家に帰りました。
つぎの朝、「きのうはなすび、ありがとう。」と言うと、今度は曲ったきゅうりを二本、枝からもいでくれました。
持って帰ると、母は「みずみずしいね。おいしいよ。」とニコニコです。
あくる朝、「ただで貰ったら申し訳ないからね。『十円分下さい。』と言って、渡しなさい。」と、母は大きい財布に十円玉を一つ入れました。
母の言ったとおりすると、おじさんは持ちきれないほどの、なすびときゅうりをくれたのです。
私はスカートを風呂敷代わりにして、持って帰りました。
「こんなにたくさん悪いわね。でも、また買いに行ってね。」と母。
その後時々、私は十円入ったさいふと買物かごを持って、おじさんのところへ行き、市場に出せない曲った野菜や小さな野菜を、かごいっぱい買って来ました。
次にラジオ体操から帰って、豆腐屋さんへ買い物です。
「木綿豆腐一丁下さい。」と私。
「朝早くにお使い感心ね。ありがとう。」と言って、木綿豆腐一丁と欠けた豆腐を、持って行ったお鍋に入れてくれました。
「本当にありがとうございます。」とさいふの十円渡して、ていねいに頭を下げました。
二日後、「薄揚げ下さい。」と言って十円渡すと、また「朝早くお使い感心ね。ありがとう。」と言って、薄揚げ二枚と欠けたものを、うすい紙の袋に入れてくれました。
私は、もちろんていねいにお礼を言って、帰りました。
夏休みが終わる頃、お金を無くしてしぼんでいた私の心は、元気になりました。
そして、買い物かごやかばんをグルグル回す私のくせは、こんりんざい出ませんでした。
