お話「ラムネ屋トンコ」
第十七回 昭和二十九年 冬 瀬戸物は割れるよ

三年生の秋も深まり、庭の紅葉の葉がみな散って、庭に落ちています。
家族みんながちゃぶ台の周りに座って、夕飯を食べている時のことです。
ガチヤーンと台所でお皿の割れる音がしました。
母がお皿を取りに行って、落としたようです。
一年生の弟が跳んで行って、「わ―れた、われた!お皿がわれた!お母ちゃんがわった。」と騒ぎます。
「お皿が割れたくらいで、騒ぐことはないでしょ。」と母が言いますが、弟はまだ騒いでいます。
「うるさいよ。」と母の怒った声。
すると、父が「怒ることはない!」と怒鳴りました。
母がまたなにか言い返しました。
夕飯が半分位残っているのに、父がちゃぶ台をダダダーンバターンと、ひっくり返しました。
「あーあ。」食べ物や食器がめちゃくちゃで、もう食べられません。
父は、そのまますぐに、どこかへ出かけてしまいました。
母は疲れた感じで、じっと座っています。
姉がだまって片付け始めたので、私も手伝いました。
誰も何も言いません。
今夜は残念ながら、夕食は終わりで、ラジオはお休みです。
みんな早々と、寝床に入りました。
父はみんなが寝静まった頃、帰ってきたようです。
翌朝、母は起きてきません。
姉と私が「どうしよう。」と話していると、父が起きてきて、「朝ご飯がないから、今日は学校を休みなさい。」と言います。
「いらんことを言って騒ぐから、お父ちゃんとお母ちゃんが喧嘩して、私たちは学校へ行けんようになった。」と姉が弟のところへ行って言いました。
「瀬戸物は割れるものよ。これからはいらんことを言わないでね。ぜったい言わないでね。」と、弟に念を押しました。
特に私は、お茶碗やお皿をよく落として割りますが、亡くなったおばあちゃんも母も怒ったことはありません。
「瀬戸物は割れるもの。割れんかったら瀬戸物屋が儲からん。」とおばあちゃんも言っていました。
瀬戸物を割っても後片付けさえすれば、叱られることもありませんでした。
明治時代に、おじいちゃんがラムネ屋や他の商売をしていて、お手伝いの人やお客さんも多く、茶碗や汁碗や色々な皿や小鉢などそれぞれ百枚づつあったそうです。
我家の食器は古くて割れやすいのですが、割れても割れても、まだまだあります。
「お茶碗やお皿を買ったことがないから、瀬戸物屋さんが無愛想よ。」と母がしばしば言います。
弟は田舎のおじいちゃんのところで育ち、しつけが厳しい家だったから、お皿が割れたので大変だと、騒いだに違いありません。
母はお昼ごろ起きて、おにぎりを作ってくれました。
私はたまには学校を休むのいいなと、のんびり過ごしました。
父はラムネの仕事がない日だったので、また友達の家に行ったらしく、夕方帰ってきて来ました。
またいつも通りの夕飯になりましたが、なんだか静かでした。
つぎの週の月曜日、学校から帰ってみると、母がとても機嫌がいいのです。
母が日頃から欲しいと言っていた、大きい西洋皿と少し深い中くらいの西洋皿と小さい西洋皿が六枚づつ、ちゃぶ台の上に並べてあります。
小さい花や線が描いてある、センスのよい西洋皿です。
母はコロッケをつくり、ほーれん草のバター炒めを添えて、西洋皿に盛り、美しい夕ご飯を用意しました。
おいしく食べて、後片付けを手伝っていると、以前の古い貫禄のあるお皿が食器棚に無いことに気づきました。
我家にある明治時代の茶碗やお皿の半分ぐらいは、古くても価値があることが分かったそうです。
「うちの古いお皿などは、西洋皿の十倍の価値がある。」と父が言って、蔵に片付けたのです。
だから、母がいそいそと瀬戸物屋さんへ行って、気に入った西洋皿を買ってきたのです。
父が価値があまり無いから使ってよいと言った、だるまさんや日の出が大きく描いてあるお皿などを、母は指差してました。
「これはおかずがおいしそうに見えないから嫌いなの。これからは、今日買った、素敵なお皿を使えるから嬉しいわ。」と私の耳もとで囁きます。
私が古いお皿を割ってなくなることを、母は望んでいたのではないかとさえ感じました。
しばらくして、父はその価値があるという古いお皿などを、十枚ずつ骨董屋へ持って行き、売ったようです。
そして、以前から欲しかった古い壺や絵皿を買って来て、自慢して私達に見せてから、床の間に飾りました。
また、ひびが入ったところに金箔を塗った、古い九谷焼と伊万里焼の小さい茶碗も買って来ました。
「なかなかお洒落だ。」と父は嬉しそうに眺めています。
私もひびがはいっても上手に使う、昔の人の知恵に感心しました。
父も母も嬉しいことがあり、元のように和やかな我家になって、ホッとしました。
それからは、私は茶碗やお皿を落として割らないように、しっかり気をつけることにました。
