お話「ラムネ屋トンコ」
第二十七回 昭和三十一年 春 音楽のけいこ

四年生の終り頃、私のおんちをなおすために、父母はどうしたらよいか考え始めました。
おばあちゃんが音楽ぎらいで、音楽のない家で育ったから、私がおんちになったのではないかと、父母は思ったようです。
母は、弟の担任で音楽が得意な俊栄先生に、相談しました。
俊栄先生は、私の親しい満喜子ちゃんのお父さんで、教頭先生です。
五年生になって、週一回給食の後、俊栄先生にピアノの置いてある講堂で、歌のレッスンを受けることになりました。
クラスのみんなは、私のおんちを知っているので、「がんばって。」と送り出してくれます。
ドレミファソラシドの音を私が覚えるよう、俊栄先生はいろいろ工夫してくれました。
が、私はピアノのドレミの音を聞いても、ドレミと同じ高さの音が、なかなか出ません。
覚えるどころではありません。
私が歌のけいこを始めようとしたのには、訳があります。
二年生の学芸会で私は「さくらさくら」の踊りに出ました。
父母は「上手だったよ。」と誉めてくれました。
その後、「六年生の『鶴のおんがえし』の劇に出た、つう役のお姉さんはとっても上手だったね。」と母は感心したようです。
私もそう思いました。
その時から、私も女の子の役で劇に出て「とっても上手ね。」と母に誉められたいと、思うようになりました。
四年生の学芸会の相談が始まる時、「劇の主役に一回なったので、私はもう主役はできないらしいよ。」 と舌切りすずめの主役をした裕子ちゃんが言います。
「としちゃんも台詞のある役は、できないと思うよ。」と裕子ちゃん。
私のクラスは「京都弁の劇」に決まり、私は通りすがりの、台詞のないおばさん役に、選ばれました。
ちょうどその頃、「緑はるかに」の映画を観ました。
浅丘ルリ子という女の子がとても上手に演じていて、私は笑ったり涙を流したりして、感心して観ました。
その浅丘ルリ子という女の子は「子役」と呼ばれていて、歌も上手です。
学芸会で台詞のある、女の子役ができないのなら、「子役」になって「とっても上手ね。」と母に誉められることが、私のひそかな夢になりました。
子役は、歌を上手に歌わなくてはならないので、歌のけいこをしようと思ったのですが、難しそうです。
しばらくして、俊栄先生がバイオリンを勧めて下さり、母は大賛成です。
バイオリンは値段が高いので、「お金は大丈夫?」と母に聞きました。
「最近、ラムネを一箱ずつ買ってくれる家があるので、仕事が忙しくなったのよ。お金のことは心配しなくていいのよ。」「それにお父さんは、たばこやお酒を飲まないからと言って、本屋さんで毎月文学全集や美術全集を買っているのよ。」と、本屋さんの請求書を、見せてくれました。
「ちっとも読まないで、本箱に飾っているだけよ。バイオリンやおけいこ代のほうがよっぽど有意義よ。」とも言いました。
そういえば、父が文学全集を読んでいるのを見たことはないし、美術全集は時々ながめているだけです。
読むといえば、時々私達に童話を読んでくれたのですが。
弟と一緒に、月に二回土曜日に隣のT市のバイオリン教室に、通うことになりました。
バイオリンの音を聴くと、音がよく分かるようになるらしいのですが、音がなかなか出なくて、「キーキーギーギー」ばかりです。
私は四年生の秋まで、土曜日は休まず絵の教室に行っていました。
絵の教室の敏春先生は、夏休みのキャンプの時訪ねて来た、笑顔がステキで優しそうな人と、秋に結婚しました。
私はなんだかつまらない気分になり、絵の教室を休みがちだっのです。
だから、バイオリンのけいこが、ちょうどよかったのです。
しばらくして、小学校の音楽部の先生が誘ってくれたので、音楽部に行ってみました。
合奏の時、先生が「まわりのバイオリンの人の弓の動きに合わせて、ソばかりを弾きなさい。」と言いました。
私は音楽部のみんながとても上手なので、感心するばかりで、弓を合わせてソの音を弾くのに必死でした。
音楽部に行くのは、長続きしませんでした。
音楽部は次の年、西日本合奏コンクールで最優秀校に選ばれるほどの腕前でした。
音楽の授業の時、私は「ドレミー。」と歌ってみても、オルガンのドレミの音と違っているようで、がっかりしてばかりです。
そこで、私はすこし遅れるけど、オルガンの音や、みんなの歌声をよく聴いて合わせて歌うと、時々合うような気がしてきました。
「音を楽しむと書いて音楽。」と聞きましたが、私にはよく聞いて合わせることが難しく、まだ楽しめません。
しかし、たて笛は気をつけて吹けば、きれいな音が出るので嬉しくなり、好きになりました。
また、歌うことは音を合わせるのに疲れるけど、歌や音楽を聴くことはとても楽で、好きになりました。
